〇また戦争が始まってしまった。多くの人が殺される。こんな時に、滑稽な文芸の一つである俳句を詠むことにどれだけの意味があるか、と考える。結局は武力に優れている方が勝ち、夢も希望もねじ伏せられてしまう。しかし、人間に絶望してはならない。もうほとんど絶望しているとしても、何とか踏ん張って、人間の力を示したい。
私にとって、俳句とはそのようなものだ。
砂浜に腰下ろしける吾が秋思
秋−秋思 この句は、紗希先生から並選を頂きました。<砂浜>と言えば石川啄木の「一握の砂」がありますから、イメージがかぶさらないか心配しましたが、啄木と比べるまでもなかったようです。
墓裏の丘を登りて秋思せり
<以前、足元の墓を見下ろした時の句を詠もうとして上手くいかなかったのですが、こう詠めば良かったのかと、感激しました。特選と迷いましたが、「せり」が気になりました>
このように書いて下さった方からは、並選を頂きました。ただ、<「せり」が気になりました>というのが、私には何のことか分かりませんでしたが、紗希先生が仰るには、「登りて」と「せり」の動詞が二つあるのがよくないのだそうです。私としては、ケースバイケースで、その都度判断すればいいと思っていたのですが、どうやら一句の中に二つ以上動詞がある場合は、ほとんどチェックされるみたいでした。このあたり、私にはまだよくわかっていない事柄なのでした。
秋桜の揺れて振り向く君がいる
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